今日のおやつはなんだろな

LEGOと宇宙が好きな兄。生物も英語もなんでも興味津々な妹。兄妹とのあれこれを。

欲しいもの我慢しすぎると【ママパパへ】なにが欲しいか分からなくなる

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クリスマスも迫って来ましたね。

お子さんや家族へのプレゼントは何にするかもう決まっていますか?

お子さんが本当に欲しいものを知っていますか?

 

今日は私の「欲しい」への向き合い方の話です。

 

 

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育児 それは小さい頃の自分と向き合うということ

あくまで私の場合ですが、子育てをしていると自分の小さい頃の記憶がありありと浮かんで来て、ちょっと疲れる時があります。小さい頃の自分自身を満たしているような、育て直しているような、そんな感じです。

今の社会と昔では言われていることも違うので、母をせめるつもりはありませんが、私と同じことを孫たちにはして欲しくないのが本音です。そして私はそんな母を無意識に反面教師にして子育てをしているようです。母に「あなた(私)ができなかったことを孫たちにやらせているようで嫌だ」と言われた事もあるくらいです。

 

例えばTV。

私は末っ子のため母は幼稚園前から姉達のPTA活動に忙しくしていました。当時家に子供を置いていく事もそんなに珍しいことではなかったらしく、家で映画を一人で観ていました。当時の私は3歳〜4歳でしたが、ビデオの入替えも自分でせっせとしていたみたいです。

今では情緒的にTVや動画を見せっぱなしにするのはよくないと言われていますね。まぁわかる、私も情緒に問題があるのは自覚しています。ただしそのせいだけとは言い切れません。他にも理由はあるのでしょう。

子供達にTVを見せる際は私がなるべく側にいます。一緒見る時もあれば横で新聞を読んだり時には携帯をいじっている時もありますが、なるべく顔が見えるようにしています。

 

一方で、私が育った家庭は厳しい家庭でもありました。父は仕事で留守がちだったので、実質的に躾をしていたのは母です。

基本的な躾がそこまで厳しかったのか、他の家庭を知らないのでなんともいえませんがいま現在の私はゆるゆる、反動?いや元々心と頭にちっとも響いていなくて言われたからやっていただけか、そもそもやっていなかったのかもしれません。そんな子持30過ぎの私をみて、母は今でもなんとかしようと頑張っています。もう良いよ〜

 

幼児期に欲しいものを我慢することの弊害

「欲しい」と言えなくなるまで

おもちゃは親の好みで選定されていました。4歳くらいの時にセーラームーンが流行っていてその変身ステッキだったかパクトだったかを猛烈にほしかったのですが「言っても買ってもらえない」とすでに考えていて意思表示さえしませんでした。最近その頃の話をしたら相当驚かれていました。私は幼児期癇癪持ちで相当わがままだったと自覚していたのですが、母の中では子供たちの中で一番大人しくて育てやすかったみたいです。意思表示ができないタイプだったのでしょうね、なので本当は何か言いたくても、感情が渦巻いていても、、側から見ると「大人しい」という。姉達を見て何が「ダメ」かもわかっていたので余計自分の本当の欲求を出せなかったのかもしれません。

↑あったあった!今でも売っているんですね〜

 

その頃に欲しかった玩具やしたかったことを今でも覚えています。

ガチャガチャ

車を走らせる立体駐車場

セーラムーン関連

お化粧台

新しい人形(お古はあった)

 

↑ 子供が生まれてから単純に可愛くて興味を持った家用のガチャガチャ。「あなた(私)ができなかったことを孫たちにやらせているようで嫌だ」はあながち間違っていないのかもしれない。

  

私も「あれしたい、これ欲しい」と意思表示をした事もありました。3-4歳頃の話です。私はよく行くスーパーの外のガチャガチャがしたくて、何をいう訳でもなくやっている子を眺めていたことがあります。母は外に居ると言葉ではなく怖い表情で「ダメ!」と伝えるタイプでした。その時も私が立ち尽くしているその光景を見ると、嫌そうな顔で立ち去ってしまったのです。そこで私も慌てて追いかけて中に入った記憶があります。それから私は大学生になるまでガチャガチャを一回もすることはありませんでした。

 

 

こんな感じで「ダメ」を蓄積して行った結果「私が欲しいもの」ではなく

「欲しいと言っても母に許されるもの」が「欲しいもの」だと錯覚していきました。

 

買っても良い(欲しいと言っても許される)おもちゃ。

シルバニアファミリー

↑私はごっこ遊びより、家具の配置やアイテムを揃えるのが好きでした 

 

自分が先に欲しいと言ったのか母が選んでくれたのか分かりませんが、5歳のクリスマスにシルバニアハウスとその人形を買ってもらいました。家具だの人形だの揃える物が沢山あるので、シルバニアシリーズをお店で見かけると物凄い勢いでおねだりしていました。私は普段は大人しく引っ込み思案ですが、絶対欲しい(ねだればこれなら買って貰える)という思いがそうさせていたのだと思います。

もちろんシルバニアファミリーもほしかった。でも本当はガチャガチャもしたかったしほしかった。言えなかった。我慢してました。

小学生になると欲しいものが極端に少なくなった

少し大きくなって小学生になると、クリスマスに向けて親に欲しい物を聞かれても「ない」と答えていました。「自分に必要なものは十分に買ってもらっている。十分だ」と。本心でした。普段から時々新しい洋服も買って貰えて、欲しい本も在庫切れなら取り寄せてもらっていましたから。

ただ、そう私に言われてしまって母も困り顔でした。結局クリスマスにはディズニーのビデオやお菓子など、私が喜びそうなものを靴下に入れてくれました。

 

振り返った今だからわかる事があります。本当は「(親の望むような高尚な欲しい物は)ない」だけでした。本当はイラストを描くのが大好きな私は画材が欲しかった。新しい服や、ゲーム(厳禁!)だって。欲しいものは人並みかそれ以上にあったんです。「言ってもダメと言われる」「恥ずかしい(漫画を書くことも所有する事も恥ずかしい事とされていたので隠れて描いていました)」そんな思いがずっと小さい頃から当たり前になっていて、本当の望みを誰にも言わないことも我慢も当たり前で、無意識に欲しいものを押し込めて「欲しいものはない」と言っていたのです。

 

あぁ手にはいならなくても「欲しい」と言いたったな。自分の欲しいものは自分の趣味や好きな事に繋がっているのだから、それを丸ごと認めて欲しかったのだな。もしダメでも「なぜダメなのか」を聞きたかったな。

 弊害

ガチャガチャやイラストや漫画を読む事、ゲームを家庭内で「ダメ」とされていた私は、それらをしている友人を「軽蔑」するようになりました。小学生の頃から高校生くらいまでの間「無意識レベルで」です。ひどいですねぇ。本当は自分もしたくてしたくてたまらないはずなのに。理由もなく友人達を「ダメ」と心の中で思っていたんですね。そこまで態度には出ていなくても、人を選別するように見ていました。うぅ。

  

無意識にひどい価値観で過ごしてきた私も、大学生になるとやっとそんな自分に気が付く事ができました。しかしずっと「ダメ」と言われてきたことを友人や自分に「許す」ことは結構難しいものでしたが、今では人に対してそれらのことをしているからという偏見も選別もありません。ただ、そのように人を見てきたことに今でも罪悪感と後悔がつきまとっています。

また自分に対しては欲しいものを無意識で無視するくせがぬけ切らず、きちんと自分に向き合わないと本当に何も買わずに過ごしてしまします。

私の本当に欲しいものは洋服とかコスメとか女性的なものよりマニアックなものばかりでした。おこづかいをもらっている学生の身では全く両親に共感されないのがわかっていたので、学生のときは無難な洋服とかに無駄なお金を使っていたなぁとも思います。もっと早くから自分の趣味趣向をオープンにできていたら、もうちょっと自分にとって有意義なお金の使い方も学べた気がします。

 

 私の「欲しい」にどう対応してもらいたかった?子供達にどうしていきたいか

もう30年程前のことなのに、当時のことを怖いくらいに覚えているんですよねぇ、これが。子供が同じ年齢になって本当に昔の光景をよく思い出すようになりました。

昔の母の態度は今の私も十分やってしまいそうな態度なのですが、息子がガチャガチャしたいと言った時は「したい?」と話を聞き、やらない時も「〜だから今はごめんね」そんな会話くらいはするように心がけています。私もせめてそんなやり取りを母とできていたら、ここまで苦しくはなかったのかもなぁ。

まぁガチャガチャも地味に高いので、「特別な時(遠出した時の記念品っぽいガチャ)だけやる」ということで息子は納得してもらっています。時々普段の生活の中でやりたがる時も話は聞くようにしています。

 「欲しい」ことは悪いことではない

欲しいものが手に入ることが贅沢な事、恵まれている事だとはわかっています。ただ「欲しい」ことはいけないことではないと思うんです。だから子供達には欲しいものは欲しいと素直に表現してもらいたい。それが実際購入できるかどうかは別にして。

子供達の欲求は際限なくてそれはもう大変です。全て聞いていたらお財布的にも大変ですし、家もおもちゃであふれてしまってごちゃごちゃになっちゃいます。それは私もイヤです。そして絵本以外は基本的に、誕生日やクリスマスなどでなければ買いません。厳しい方かもしれません。

結果的に買えなくても欲しがった時に私が大切にしていることは、ゆっくり子供と話し合うことです。本当にこれが欲しいのか、今なくてはいけないのか、家にあるおもちゃと比較して「SL(息子の一番のお気に入り)より好き?大事にする?」と聞いてみたりもします。それであっさり「やっぱりいらない」という事もありますし、そうならなくても「クリスマスにサンタさんに頼む」と収束することがほとんどです。

 

欲しいことは悪いことではない。

買わない理由は?

やってはいけない理由は?

ものを大切にするとは?

親が善悪を決めていないか?ものや行為にそもそも善悪はあるのか?

 

今の私はそんなことを考えながら子供の「欲しい」に向き合っています。

子供の「欲しい」を「許す」ことが大切

小さいころからの価値観って怖いもので、自分の価値観で人を「うわぁ」と内心責めている自分がいました。人をそんな風に見ていたなんて私は、なんてもったいないことをしてきたのだろうと思います。我が子は人を見る上で不必要な枠を持たずに大きくなって欲しいし、自分の「欲しい」を大切にできる大人になってもらいたい。

子供の「欲しい」を無視したり「そんなもの!」と吐き捨てることってその子を否定していることなんですよね。誰だって好きなものを全否定されたら悲しい。全身全霊で両親を愛している子供が、その大好きな親に否定されたらそれはそれはもう。

 

たかがおもちゃ、されどおもちゃ。

 

結果買えなくても、その子の「欲しい」サインを見逃さないように、、

「欲しい」を否定しないで認めてあげよう。

私の小さい頃のちょっとした傷は、今子供達にしてあげられることや気づきを与えてくれます。子供の世界を大切にしていきたいと強く思う白玉でした。

 

皆さんは子供が本当に欲しいものを知っていますか? 

 

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